2011/09/19

Interview: 新井卓 - Mirrors in Our Nights/夜々の鏡

調文明(以下、BS: 川崎市市民ミュージアムで開催中の個展「夜々の鏡」201179-1010日)は、3つのシリーズ「Mirrors in Our Nights/夜々の鏡」、「Portraits of Us/私たちの肖像」、「Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」から成っています。展覧会タイトルと同名のシリーズが展示の中心かと思いますが、他のシリーズ「Portraits of Us/私たちの肖像」、「Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」との関係はどのようになっているのでしょうか?
Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」の展示風景
Portraits of Us/私たちの肖像」の展示風景
Mirrors in Our Nights/夜々の鏡」の展示風景

新井卓(以下、TA: 今回の展覧会は、すべて新作のダゲレオタイプで構成されています。その中で最初に制作を開始したのは「Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」のシリーズです。これは今年の元旦から取り組みはじめた、一日一枚の6x6判ダゲレオタイプを撮影するという試みで、現在も継続しているものです。もともとは本展のためのプロジェクトではなく、非常な手間と時間を必要とするダゲレオタイプを「日常」の中に組み込むことで、私にとってダゲレオタイプをもっと自由で身軽な表現手段とすることが目的でした。そんな折り、311日の震災が発生し状況が一変しました。さらに一週間ほどして父方の祖父が急逝し、震災と相まって精神的に深い傷手を追うことになりました。ひどく混乱し、本展はもとよりもはや何も作ることができない状態に陥ったのですが、亡くなった祖父に会いに行き、穏やかに眠ったような表情と平穏な最期を知り、祖父の死を少しずつ受け容れることができました。そのとき、私自身のための形見として、通夜を待つ祖父のダゲレオタイプを撮りたいと思いました。「Portraits of Us/私たちの肖像」は、祖父のポートレイトをきっかけに撮影した、私の家族の肖像です。
Mirrors in Our Nights/
夜々の鏡」はそれ以降、震災の後、そして祖父が逝った後の世界を見つめながら一枚ずつ記録したダゲレオタイプです。
千年に一度と言われる震災とそれに続く核災害は、物理的にも精神的にも私たちの世界を完全に変えてしまいました。問題はあまりに大きく、人間の想像力を完全に超えているものです。一人の人間に何ができるかと考えると途方に暮れてしまいますが、私という極小の存在が見たもの、痛みや喜びといったものを最大限掬いとって記録する行為は、決して無意味ではないと信じています。私たちが感覚しうるリアリティは、結局そこからしか触知しえないからです。

BS:Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」のシリーズを撮っている最中に、2011311日の東日本大震災、そして祖父の死が立て続け起こったわけですね。3つのシリーズの関係は、「Dairy D-type Project/毎日の銀板写真」を幹に、二つの「事後Aftermath」の日常を撮影したシリーズ「Mirrors in Our Nights/夜々の鏡」、「Portraits of Us/私たちの肖像」を枝に見立てることができそうです。そして興味ぶかいことに、これら枝となるふたつのシリーズはそれぞれ「ourus 私たち」という人称代名詞をそのタイトルに含んでいます。「私たちの(日常)世界」という意味はある程度理解できる一方で、「私たち」という言葉が持つ暴力性にも思い至らざるを得ません。「想像力を完全に超えている」ということは、共感(これもひとつの想像力です)を前提とした「私たち」が不可能だということであり、「私」が「私たち」と言うことは、暴力的な飛躍を潜在的に孕んでいます(「私」が「私たち」と言うとき、「私」は「私たち」の代弁者となります――しかし、「私」は「私たち」の代弁者たりえるのでしょうか)。「私たち」へと飛躍させるのではなく、「極小の存在」としての「私」に居続けることこそが重要なのではないでしょうか。
単数と複数の問題でいえば、mediummediaの関係も興味ぶかいです。本展パンフレットの文章で、新井さんは写真とダゲレオタイプを区別して、前者を「medium、複製可能なもの、マス・メディアの映像」、後者を「container、複製不可能なもの、家族の写真」としています。この区分は理解できるものの、疑問もあります。mediaと言うとき、語感的にそこには「複製性」が前提とされているように思います(新聞、音楽、映画等々)。しかし一方、mediumと言うとき、そこには複製性に抗うような意図もあるのではないでしょうか。写真の特徴として複製性だけを取り上げることに抗して、「その他」の特徴を提示するというように(例えば、スライド・ショーにみられる「消えゆく」感など)。区分すべきは、むしろmediummediaのあいだなのではないでしょうか。単数形と複数形の違い以上のものが、そのあいだにあるように思います。

TA: まずはじめに「ourus」についてですが、今回はこの複数人称を意識して使いました。一番表面的なレベルでは、震災のあとしばらく周囲に漂っていた全体感のようなもの、これが私にとって今までに持ったことのない感覚であり、その気分をそのまま「私たち」という代名詞に置き換えてみたということです。
しかし、もちろん「私たち」という言葉はそれほど簡単な代名詞ではなかったことに、すぐに気付かされることになりました。震災後はじめて東北沿岸を訪れたとき、目の前で救助活動にあたる自衛隊や警察、避難所に身をよせる家族や流された船舶の前でじっと立ち尽くす漁師たち、そういった人々と横浜周辺で震災を体験した「私たち」との間に大きな断絶を感じ、私が持っていた甘い全体感などすぐに消し飛んでしまいました。それ以来私にとって「私たち」とは、たとえば「日本人」などとひとまとめにすることなど決してできない、決定的に孤立した他者の集合を意味する言葉になりました。「Mirrors in Our Nights」は「私たちのひとつの夜の鏡」ではなく「私たちの夜々の鏡たち」ということです。それぞれが他者の存在を感じながらも、それぞれの夜のなかで孤立している。そんなイメージです。そして、その最小単位としての「Us、私たち」が私にとっては同じ家で暮らす家族、もう一つのタイトル「Portraits of Us」の「Us」だということです。
他者を代弁することは、誤解を恐れずにいえばおそらく写真が絶対にできない仕事のひとつです。極小の存在として、撮る人が自分自身の生を通して伝えることができなければ、その写真に共感をよぶ力はありません。極小の「私」であるからこそ、他者に「私たち」と呼びかけることは、少なくともできる。「私」と「私たち」の関係はつねに揺らいでいます。
次に「medium」と「media」についてですが、写真は単一の媒体なのでステートメントの中で単数形の「medium」を使いました。日英の語感の違いがあるかもしれませんが、特に他意はありません。複製可能性以上に、mediaとしての写真がもつ表面のフラットさあるいはクリーンさと、containerとしてのダゲレオタイプがもつ傷のようなものについて、いつも考えています。私の定義ではダゲレオタイプは運搬するもの/containerですが、他の例として、たとえば夢の島に保管されている第五福竜丸の船体なども、containerの一つといえるでしょう(逆に広島の原爆慰霊塔はcontainerではなく、mediumの一種です)。死の灰を浴びた第五福竜丸の船体には、もう感知できるほどの放射性物質は残っていません。しかし、放射線に晒され目に見えない傷を受けた船体そのものが、出来事の証人としてそこに残されている。それと同じように、最終的に目に触れる銀板が、そのとき、その場所の光の放射を受けた「そのもの」であるということが、わたしにとってダゲレオタイプを撮る上でもっとも重要なのです。

BS: 「私たち」という人称代名詞に代入されるものの輪郭が、少し明らかになりました。「夜々の鏡/Mirrors in Our Nights」というタイトルには、それぞれが他者の存在を感じながらも、それぞれの夜のなかで孤立している」という意味が、Portraits of Us/私たちの肖像」というタイトルには、その「それぞれ」の最小単位としての家族(「私たち」)の肖像という意味が込められていたのですね。三つのシリーズの関係性をある程度つかめることができました。
新井さんがおっしゃるように、「そのもの」性という特徴をもったダゲレオタイプは、放射線がもたらす「目に見えない傷」をその身に宿すことで、核の問題を提示(可視化ではなく)することができるといえそうです。その意味で、形式と内容のあいだで非常に整合性がとれているように思われます。ところで、「
Mirrors in Our Nights/夜々の鏡」は福島原発の事故の影響を受けた地域を写したダゲレオタイプだけでなく、東日本大震災の津波の影響を受けた地域を写したダゲレオタイプも並置されています。原発事故の被害を受けた地域と津波の被害を受けた地域は、その被害の原因、そして被害の様相という点で全く異質なものです。その異質なもの同士を並置したことをどのように捉えればよいのでしょうか。
Mirrors in Our Nights / 6月13日、飯舘村1, June 13th, Iitate Vilage 1, 2011

TA: 今回の一連の作品は、震災後に撮りたい、と思った物を一枚ずつ撮影したその軌跡をそのまま展示しています。ですので、そこに明確な論理はないのかもしれません。
原発事故(私は核災害と言うことにしています)と地震・津波という災害の異質性は、実際、何度も東北を訪問する過程で身をもって知りました。
ダゲレオタイプの撮影に赴いた順番としては、まず4月初めに焼津へ、それから福島の三春、釜石と遠野、そして宮城沿岸地域とつづき、最後が飯舘村です。
焼津は、第五福竜丸をテーマにしたプロジェクト「EXPOSE 死の灰」のために震災発生のかなり前から訪問を予定していました。そこで第五福竜丸に積もった「死の灰」(核実験で燃え尽きて舞い上がった珊瑚礁の、放射性の灰)のサンプルを撮影したのですが、その折、焼津港で船体に「女川」「いわき」「塩竃」と書かれた漁船に偶然出会いました。船の傍にいた乗組員の一人に話を聞くと、津波で壊滅した母港から一時的に避難しているとのことでした。
その頃、私はまだ被災地に出かけていって撮影することをためらっていたのですが、焼津で実際に現地から避難してきた船と人とを目の当たりにして、まず船体に書かれていた土地「いわき」や「女川」へ行きたいと思ったのです。これらの場所は私にとって以前からなじみ深い港町ですが、何も撮れなくてもいいから、とにかく現場に行ってこの眼で確かめなくては、と、そのとき強く感じました。さらに焼津への旅では、そこからほど近い浜岡原発へも足を伸ばしました。そこで原発のPR館を見て、日没が迫る時刻、冷却水の放水口の近くまで行ってプラントのダゲレオタイプを撮影しました。焼津への旅は、非常に間接的な形で、いま起きていることと自分とのつながりを意識する契機になったのかもしれません。
先ほども触れましたが、福島の核災害の現場が他の災害の現場とあまりにも異質であることは、6月、飯舘村をはじめて訪れた瞬間に理解しました。核災害は非常に抽象的で、形も臭いもなく、それゆえ本当に不気味なものです。そして何よりも、いまだ災害は現在進行形の状態です。ほとんど何も解決していないどころか、情報の見えないヴェールの奥で、事態が確実に深刻化している気配すら漂っています。7月にふたたび飯舘村を訪れたとき、暗室テントで作業中サイレンが鳴り響くのが聞こえ、警察車両が一斉にどこかへ走り去ったことがありました。明らかに原発周辺で何かが起きたらしいことは想像できるのですが、その場にいる私は何も知ることができず何も見えず、感じられず、まったくの無力で愚かしい存在に思えました。そのときの、じっとりとまとわりつくような恐怖感、喉の渇き、手の震えは今でも身体に焼きついています。
私はいつも、一つの展示の最後のパートに、次の仕事の手がかりのようなものを残すことにしています。目に見えないが確実にそこにあるもの、それについて何ができるのか。「Mirrors in Our Nights」の最後の2枚、飯舘村のダゲレオタイプは、以後私が取り組むべき具体的な課題として、そこに置かれています。

BS: 「私はいつも、一つの展示の最後のパートに、次の仕事の手がかりのようなものを残すことにしています」という言葉は、重要ですね。私はどうしても完結した理念的なコンセプトということを想定してしまうのですが、オープンエンドで実践的なコンセプトとして新井さんは取り組まれているということでしょうか。「Mirrors in Our Nights」の最後の2枚から紡ぎだされるであろう次回作、楽しみにしています。
Mirrors in Our Nights」の展示方法は、前回のKEN(三件茶屋にあるイベントスペース)での展示を継承している部分が多いように思います。ダゲレオタイプ、電球、音の三つのメディウムを用いているところなどは、KENで展示した「Fallout, Study」シリーズに多くを負っています。しかし、両者の展示には異なる部分もあります。KENでの展示では黒い壁面にダゲレオタイプを設置していたのに対し、今回の展示は川崎市市民ミュージアムの白っぽい壁面をそのまま利用しています。また、今回の展示では、懐中電灯を入口付近に置き、観客に自由に使用できるようにしてありました。これも前回の展示では見られないものです。こうした展示の変化の背景には、どのようなものがあったのでしょうか。「黒い壁面」であれば、タイトルにある「夜」ともうまく響き合うように思うのですが。
Fallout, Study」(@KEN)の展示風景

TA: KENで展示した「Fallout, Study」は川崎での展示のための実験として、初めてライティングと音声を組み合わせて展示した作品です。KENの展示空間は理想的なものでした。音響が優れていて、壁面が黒く塗りつぶされていますので、今回のような展示方法には最も適しています。ご指摘のとおり、当然、ミュージアムの展示空間の壁も黒くしたかったのですが、その希望は美術館側に聞き入れられませんでした。楕円形の空間そのものは空間をシームレスに感じさせ、かつ特異な音響が素晴らしかっただけに、非常に残念に思っています。
今回の展示空間では、ダゲレオタイプ作品が左から順に、ひとつずつライティングされていきます。これは、ダゲレオタイプという存在が、現在一般的になった「組写真」という文化と相容れないものと考え、あくまで一枚ずつ、個別の体験として見る人に差し出したいと思い、考案した方法でした。個々のライティングの点灯時間は、同時に流れる音──ダゲレオタイプの露光中、つまりレンズの蓋を開けてから閉じるまでの間録音した現場の環境音──の長さと同期しています。ですので、一枚のダゲレオタイプを時間をかけて見たいと思った場合に、点灯時間が短すぎて、見る人にとって余計なストレスになる可能性もあります。それで、インスタレーションだけでなく、自由に時間をかけて見て回れるよう懐中電灯を置きました。子供たちが喜んで懐中電灯を使って見ていますが、結果として、自ら懐中電灯で照らすことで、見る行為がより主体的かつプライヴェートな体験になったのではないか、と思っています。

BS: 私にとって、「懐中電灯」というものは、311日の東日本大震災以降、特別な意味を有しています。震災直後からコンビニやスーパーで食料の買いだめが起こり、福島原発の事故により電力不足が懸念され計画停電が発表されてからは、懐中電灯および単一、単二乾電池の品切れが東京電力管内で頻出しました。こうした異様な品切れは、私にとって震災パニックの象徴になりました。さらに、「懐中電灯」はもうひとつの象徴にもなりました。計画停電が東京電力管内全域で実施されるのではなく、「例外」が存在することが後に分かった時、政治経済の論理が優先される事態を、「例外」の地にいる自分が見たのです。そのときから、大げさかもしれませんが、私のなかで懐中電灯は「政治経済の論理(の優先)」の象徴となりました。核の平和利用という考え方も、戦後の政治経済の論理から導き出された結果と言えましょう。そういう意味で、今回の展示で設置されている懐中電灯も、私には単なる「備品」としてではなく、作品と不可分な関係を持つものとして映っています。

TA: そうですね。懐中電灯については、設営を進めながら私も同じことを考えました。私の事務所がある横浜市中区でも、行政上重要な地であるために一度も計画停電は実施されませんでした。私は政治経済の専門知識を持っていませんが、そのような政治的優先度の設定の仕方には、一見すると合理的ですが実のところ非常に暴力的な論理があるように思います。「政治的経済的辺縁」地域に、地方経済の活性化と称して次々に原発を建設していったのと、結局は同じ理屈なのではないでしょうか。
まず初めにペットボトルの水、次にガソリン、さらにカップラーメンやレトルト食品、電池、懐中電灯、ラジオ、紙おむつや生理用ナプキン・・・それらは震災直後、首都圏で金銭よりも重い意味を帯びた品々です。
私自身は11日の震災の数時間後、買い占めのパニックが起きるのを何となく予感して、いち早く水、懐中電灯と電池、そしてガソリンを買いました。私の行動や反応は正しかったのか、間違っていて恥ずべきことなのか。一体何を基準に、どう考え解決すればいいのか、いまだに答えを見つけることができません。

BS: これまで、インタビューにお答えいただき、ありがとうございます。最後になりますが、今後の展望についてお聞きしたいと思います。今回の展示が始まった7月から、およそ2ヶ月が経ちました。その間に、被災地にも何度か足を運ばれたかと思います。そこから見えてきた新たな課題、もしくは今まで気付かなかった課題といったものはあったのでしょうか。お答えいただける範囲で結構ですので、宜しくお願いします。

TA: まず東北沿岸の状況ですが、夏までの間ほとんど手つかずといってよかった主要な漁港や大きな市街地では、少なくとも道路は修繕され、営業を再開したお店も増えて少し落ち着きをみせているように感じます。しかし、おそらくそれは自治体や現地の住民たちが、支援団体と力を合わせながら自らの手で立ち上がったからで、決して政治が何かを解決したわけではないと思います(今回の震災で、中央集権的な政治システムがほとんど何の役にも立たないどころか、人々の自律的な復興の営みにとって足枷でしかないということがはっきりしたわけですが)。
そして、おそらくいま一番問題となっているのは、私たちがすでに何かを忘れつつある、という否定しがたい事実です。
現地に行ってみれば分かりますが、過疎が進んだ小さな漁村や集落は被災後ほとんど手つかずのまま放置されていますし、福島についていえば未だ継続中の災害に日々脅かされながら生活を続ける人々が何万人も存在しています。それなのに、中央のテレビ局はもはや意図的としか思えないような白痴番組や通販番組を日々垂れ流し、報道・検証・批判というメディアの基本的ミッションすら放棄しています。これは集団による積極的忘却であって、メディアの民主主義に対するネグレクティヴ、あるいは緩慢な犯罪行為ではないでしょうか?
人間にとって苦しみや恐れ、悲しみはいずれ忘れてしまうものです。それはあるいは生存のための本能なのかもしれません。私にとって写真は、何かを忘れてしまわないために必要な一つの手段です。展覧会によせた文章にも書きましたが、複製不可能なダゲレオタイプは他のどの写真よりも「もの」に近く、ある種のモニュメントとして機能するのではないかと思っています。ドキュメンタリー・フォトがあるとすれば、それはモニュメンタリー・フォトと呼べるかも知れません。
先の質問で原発事故による被災地と地震・津波による被災地の違いについて指摘いただきましたが、今後はやはり、福島で起こっている核災害について、何を掬いとることができるか考えてみるつもりです。最後にもう一つ課題として意識するのは、そうやって撮りつづけたものを、誰よりもまず被災した人々に見せることができるか、ということです。誰のために何を伝えるのか、ということ、一見すると稚拙にも聞こえるかもしれませんが、写真に限らずどのような表現手段であっても、そのことを真摯に考える局面に、いま私たちは立っているのではないでしょうか。

(2011年9月1日から9月9日まで、電子メールでの往復書簡によるインタビュー)


新井卓個展「Mirrors in Our Nights/夜々の鏡」
期間:2011年7月9日~10月10日
場所: 川崎市市民ミュージアム
開館時間: 9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日: 毎週月曜日(祝日の場合は開館)、7月19日、9月20日
観覧料: 無料
主催: 川崎市市民ミュージアム
〒211-0052 神奈川県川崎市中原区等々力1-2
TEL 044-754-4500 / FAX044-754-4533
東急東横線・目黒線、JR南武線・横須賀線・湘南新宿ライン「武蔵小杉」北口からバス約10分