2011/07/31

record: RP 福居伸宏 Part 1

Asterism (plexus) - 2155

この掲載記事は、2010年12月5日、ゲストに福居伸宏さんを迎えて行われた「Researching Photography – Nobuhiro Fukui」に基づいています。この会話が収録された時点で、話の中心となっている展覧会『Asterism』からは既に数ヶ月過ぎており、今回の掲載にいたっては約1年もの歳月が経ってしまいました。第1部では撮影に関する基本的な考え方と過去の展覧会について、第2部では『Asterism』に関する具体的な内容および会場からの質疑応答を掲載しています。


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良知暁(以下、AR) 今日はゲストに福居伸宏さんをお招きして、今年8月に行われた個展『
Asterism』(小山 登美夫ギャラリー, 2010)や過去の展覧会など、展示に関する話を中心に伺いたいと考えています。展示の話に入る前に、撮影に関する基本的なところをお聞きしたいと思いますが、一般的に、福居さんは「夜の都市の風景を撮影する作家」と新聞や雑誌で紹介されています。夜の作品を撮影する際の基本的なルールはありますか。

福居伸宏(以下、NF) あのシリーズは事前に撮り方を決めて、それに沿って撮影していくというスタイルをとっています。まず時間帯ですが0時から3時の間に撮影すると決めています。最も夜の深い時間で、その時間に活動している人は少ないんじゃないかというのが理由のひとつですね。それ以降になると、夜とはいえ街の明かりの状態が変わってくるので、0時から3時という時間に絞っています。また、ロケーションハンティングはしません。予め場所を探して、その場所にもう一度行って撮影するという手法はとらないようにしています。自転車を使って街を移動しながら、見つけた場所でどんどん撮っていくというスタイルです。撮る時点ではある特定のものを撮り集めようとは思っていません。撮っている場所はすべて逆光になっていない場所です。

僕の写真を見て、夜の風景はこんなに明るく見えないと思う人もいるかと思いますが、実際この場所に行けば、「だいたいこのように見える」というように撮っています。人間の肉眼というのは向こう側から明るい光がいっぱい来ている状態だとハレーションを起こして、ものが見えなくなる。そういう状況を外していけば、肉眼でもこの写真のように見えます。

AR 『Asterism』展だけでなく、それ以前の展覧会の写真からも画面全体にピントが合っていると感じました。すべての画面に均質にピントが合うという効果が生まれるパンフォーカスを使用するのにはなにか意図するものがありますか。

NF これはよくある風景写真の方法だと思います。すべてを等価に見せていく手法ですよね。オールオーヴァーというふうに言われたりもすると思いますが、ただし自分では単にオールオーヴァーにやっているのとは違うと思っています。

AR パンフォーカスですべてにピントを合わせることと逆光を避けることによって、画面内の情報量に差が出ることを避けるという狙いも一貫しているように思えます。

NF 見せたいのは強い光やコントラストの効果ではなくて、そこにある環境、人間の活動によって作られているものや空間なので、それを見せたいときに光の状態だけを見せるような撮り方だと違ってくるのかなと思います。光っているものはどうしても人間の目の注意を引きやすいので、ライトの色や状態や配置が美しいとかそれだけの話になってしまいがちです。それを避けるための方法として現在のスタイルを採用しています。

AR 小山登美夫ギャラリーでのアーティストトークでもおっしゃっていましたが、夜をドラマチックに撮る方法、光の状態を見せる方法という夜の写真を理解した上で、そのようなものとは違うものを制作するという考えがあったのでしょうか。

NF そうですね。それもあらかじめ念頭にあったわけではなくて、方法を考え、写真を撮って、撮ったものをもう一度見返すというサイクルや、他の作家について関心を持ち、調べていく過程で今のスタイルになっていきました。

AR 基本的かつ非常にシンプルなことですが、撮って、見て、考える。そして再び撮影して、見て、考えるというサイクルの中で制作を続けているということですね。


NF それがもっともベースにある部分ですかね。この夜の写真に関してはあらかじめコンセプトを立てて、それに沿って必要なものを集めていくという作業ではないんです。先に写真を撮るという行為があって、集まってきたものからどういうふうにまとまりを作っていくかという。それが展覧会であったりするわけです。


AR 最初に明確なコンセプトを立てることで、ある種そのコンセプト内に収まるように制作するという手法がアートフォトグラフィーと呼ばれるものの中にあると思います。そういうものに対する意識はありますか。

NF 強くは意識していませんが、それはあるかもしれませんね。写真を始めたきっかけとして金村修さんのワークショップに行ったということもあり、そこで学んだ日本の伝統的な写真へのアプローチというものがベースにあるので現在のような方法でやっているのかもしれません。それと、今、自分が表現として写真をやる中でどうやっていくかということを考えたときに、西洋的なものと日本のフリーフローと言われるような出会い頭で撮っていくようなものとをより合わせる。そういうことに可能性を感じているので現在のような形になっているのかなという気がします。
 

AR ギャラリーでのインタビューなど過去の資料の中でも、日本写真が持っているフリーフロー、ある種の出会い頭を決して否定せずに、どのように偶然の豊かさを取り込んでいくかということを考えているという印象を持っていますが。

NF そうですね。そもそも写真というのが、撮ったときに意識されていないものも含めて、フレームに入っているものすべてを取り込んでしまいますよね。そういう部分をいかに活かしていくか。それも偶発性に繋がっていきますが、そこをあまり殺してしまうとリッチな作品にならないのではないかと思うのです。

AR 偶然を信じる部分というか、そのリッチな部分に賭ける部分と同時に、そのためのルールを決めるバランスが福居さんの中では非常に重要なのだと思います。

NF それは重要ですね。どうしても人間は癖や習慣に染まっていってしまいます。あるルールがあって、それに沿ってやっていくという部分が一方でありながら、大枠を決めた上で撮影を実践することでできあがってきた写真を見て、そこから感じたり考えたりしたことをもう一度フィードバックして、そのルールの細かい部分を微調整していく。そうしないと、どうしても同じことをやってしまうので。


Installation view –『Asterism』 at Tomio Koyama Gallery, 2010

AR ここからは展示の話に移っていきたいと思いますが、撮影のときにある種の厳密なルールを決めた上でそこに入ってくる偶然を取り込むように、展示の際にもそのようなことはあるのでしょうか。今回の展示のタイトルは「Asterism」でした。まずは展覧会のプレスリリースや福居さんのブログに掲載されていたウィキペディアからの引用、「Asterism」という曲が収録されている武満徹のアルバム『ノヴェンバー・ステップス』のライナーノーツからの抜粋を見てみましょう。
「アステリズム」とは「星群」を意味する言葉です。既に古くから定められている88星座(コンステレーション)とは違った視点で見出された星々のかたちです。(展覧会プレスリリースより抜粋)


アステリズム - 星群。恒星の並びのこと。
アステリズム (記号) - 印刷記号のひとつ。「⁂」で表される。
アステリズム (武満徹) - 武満徹が作曲した、ピアノと管弦楽のための作品。
アステリズム効果:宝石の星状光のこと。スター効果を参照。(Wikipediaより)


〈アステリズム。名詞:1.〔天文学用語〕a.星群。B.星座。2.〔結晶学用語〕光の反射をうけると、星状の光彩をしめすある種の礦物の結晶に見られる固有性。(後略)〉
(「武満徹:ノヴェンバー・ステップス」ライナーノーツより)
ご自身のブログに武満徹のライナーノーツからのアステリズムの定義を掲載していますが、今回の展覧会のタイトルを決める上でなんらかの影響はあったのでしょうか。

NF ブログに掲載したのは展覧会よりも後ですね。武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」というと、現代音楽に和楽器を持ち込んだものだという印象が強いと思うので、展覧会との繋がりをあまり強調しない方がいいかなと思っていました。

展示に絡んでいる部分があるとすれば、「ノヴェンバー・ステップス」などを発表していた60年代の武満徹は、東洋人の作曲家として海外に行き、もともとは西洋のものであるクラシックの世界でやっていく中でいろいろ悩んでいた時期、東洋と西洋のふたつに引き裂かれるような時期だったということを本などで読んでいて、それが日本の写真やアートの状況にもいえるんじゃないかというふうなことですね。
「ノヴェンバー・ステップス」では大胆に和楽器が導入されて、とはいっても、その琵琶や尺八は通常の日本の音楽でのベタな使い方とは違った新しい奏法を編み出して演奏されていたという話ですが、そこでは東洋と西洋という2つのものを調停するような、西洋のもののなかに自分の出自である東洋の感覚を織り込んでいくようなことがなされていました。そして、その少しあとに発表された「アステリズム」では、武満徹は琵琶や尺八の力を借りることなく 「ノヴェンバー・ステップス」で試みたコンセプトを実現した。それは西洋と東洋というふうな考え方への「囚われ」から自由になることができたということだと思うんですね。そんなふうなエピソードにも興味があって、「アステリズム」という曲は気になっていました。

AR 福居さんは写真や美術に限らず、さまざまなジャンルに興味を持っていますよね。先日話したときには音楽という言葉の他に「音響」という言葉も出てきましたが。

NF そういうタイプの音楽にも興味があります。音の響きそのものを聴くといったタイプの音楽ですね。例えば、フィールドレコーディングというものがありますが、録音も写真と同じ記録のメディアで、音を録音しておいて後で聞いてみると、思いもしなかった音、音の細部、いろんな音が入っているんですよね。それはけっこう写真に近いことなんじゃないかなと。狙ったもの以外のものが録れてしまう。そうした特性を音楽の中にどう取り入れていけるのかといったことが、昔から実験的な音楽とか前衛的な音楽をやっている人の間では考えられていました。そういう人の発想とか作った音楽からはけっこう刺激を受けますね。

AR 1枚の写真というものは意味を確定できない宙吊りのようなところがあり、それが音というなにか抽象的なものと似ている部分があると思っています。音と音との差異があって音楽が聞こえてくることと、写真と写真との差異があって初めて意味などが見えてくることはなにか近いものがあるのかと。そうしたことを踏まえた上で、どのように次の段階へと行けるかというのは表現におけるひとつの課題だと思います。そういう意味で音響と写真の関係性を考えるのはおもしろいですよね。

NF それはあるかもしれませんね。展示ということになると音楽のリニアな時間とは違ってくると思いますが、それでも写真1点1点をひとつひとつの音のように考えられなくはないですよね。以前展示した「Multiplies」は、楽譜のようだとか音符が並んでいるようだといった感想をもらうことがありました。意識的にそうした状態を作ることを狙ったわけではなかったんですけれども。そういえば、こういうふうに言うと、誤解されることも多いのであまり言うことはありませんでしたが、展覧会のタイトルは基本的には音楽から取っているものがほとんどなんですね。


Installation view – 「Multiplies」in 『東京画』at Tokyo Wonder Site, Shibuya, 2007
AR  ここからは過去の展覧会を時系列に見ていこうと思います。2005年に現代ハイツで行われた最初の個展の『Trans A.M.』というタイトルを聞いたとき、このタイトルと福居さんの撮影の時間帯と関係性があって興味深いと思いました。その辺りは意図していたのでしょうか。

NF はい、0時から3時という午前の早い時間、その時間をトランスする、変換する、その見方を変えるということですね。そういう意図があって『Trans A.M.』(トランス・エーエム)というタイトルにしました。「Trans Am」(トランズ・アム)というアメリカのバンドからこのタイトルを取っていますが、音楽の内容とは深く結びついていません。しかし、Trams Amというバンド自体もライブハウスやクラブのような空間で、午前になり朝が来る、つまり夜通しというような意味でバンド名を付けたらしいです。アルバムごとにけっこう違うことをやっているようですが、『surveillance』という監視を扱ったアルバムもあります。でも、それは展覧会のタイトルと直接的に結びついているわけではありません。展示の内容に合うものを選んで持ってきて、なるべくその展示の内容を説明するような言葉ですね。夜の写真で展覧会を組むにあたって、そのときに考えている興味のあるテーマに合ったものを選んでいます。タイトルは重視していますね。

そもそも「写真それ自体」というものを人が認識できるとしても、言葉がなければそれがなんなのかわからない。このようなことはよく言われていると思いますが、だからこそ、やっぱり何らかの方向付けをしてあげないと見た人は戸惑ってしまうと思うんです。でもその一方で、そもそも僕の写真を見て、よくわからない写真だと言う人はたくさんいると思うんですけどね。

AR 2007年には『東京画』(トーキョーワンダーサイト渋谷, 2007)という展覧会に参加していますね。グループ展なので「東京画」というタイトルは企画側から決まったものだと思いますが、個人の作品に対するタイトルはありましたか。



NF この作品は「Multiplies」というタイトルです。都市がどんどん増殖していくようなイメージですね。その由来を話してしまえば、YMOの『増殖』(XMultiplies)というアルバムからタイトルを取っていますが、ここにも音楽との直接的な結びつきはなく、様々な建物が増えていってどんどん大きな規模の建物になっていったり、逆に住宅地はどんどん細かくなって、三階建て、四階建ての建物が増えていったりと、都市の規模がどんどんと大きくなって膨張していくようなイメージですね。


Installation view – 「Multiplies」in 『東京画』at Tokyo Wonder Site, Shibuya, 2007
NF この『東京画』に出した写真というのは、その以前の別のグループ展『記憶の位相』(UP FIELD GALLERY. 2007)に出した作品をベースに3点の写真を加えて構成したものです。

AR この『東京画』の中からある1枚の写真を取り上げて見てみたいと思いますが、この写真は、『東京画』に際し加えられた3点のうちのひとつですね。新たな写真を加える上で、この写真は明確な意図のもとに選ばれているということですが。

NF これは他の夜の写真と同じように、実際にその場所に行けばこのように見える状況で撮られています。しかし、細部を見ていくと、建物の一室の中に絵が掛かっているのがわかります。この展覧会では、参加した7人の中で僕だけが写真の作家で他の方々はすべてペインターでした。そして「東京画」という展覧会タイトルなので、それなら僕も絵を展示してみようという意図もあって、この写真を展示しました。

僕のやっているようなこういう写真は画面全体が均質に写っているために、どこを見てよいのかわからず、あまりよく見ないうちに見終わってしまう人が少なからずいると思います。それは日常の広告表現だとか普段溢れかえっている写真を見る経験とはかなり違うものになっているので、こうした写真の見方が習慣化されていないために見えない、見ることが出来ないということがあると思います。
展示風景の写真の右側に写っている正方形の小さな写真は、これまでに撮った写真と展示期間中に撮った写真から部分をトリミングして、それをプリントし、会期中に毎日1点ないしは数点の写真をどんどん増やしていったものです。他の参加作家がペインターという中で、自分が写真を使う上で何ができるのかということを考えて、このような展示をしました。また、この『東京画』という展覧会自体が会期中に青山のワンダーサイトのスペースに滞在し、そこを使って例えばペインターの人はドローイングやペインティングを作って会期中にどんどん作品を増やしていくという企画だったので、自分はこういう展示をやったんですね。「増殖」というタイトルに合わせるということと、細部を注意深く見ていくといろいろなものが写っていて、非常に興味深いディテールがあるということをもっとわかってほしかったので、「正方形」という比較的画面全体が見やすく中心に人の眼が集まって、何が写っているのかわかりやすいフォーマットを選びました。
Multiplies - 01

AR まったく同時期というわけではないのですが、細部をトリミングして見せるという点で例えばアンドレアス・グルスキーが挙げられるかもしれません。彼の作品に集合住宅を撮影した「MONTPARNASSE」(1993)という4メートルを越える作品があります。彼が1995年に同名の写真集では、その1枚の写真から集合住宅の個々の部屋でトリミングした複数の写真が纏められています。また、松江泰治さんの『cell』(2008)を思い出す人がいるかもしれませんね。グルスキーの場合は粒子が目立つのに対して、福居さんの場合はほとんどスムーズにイメージが現れているので、双方の写真を実際に注意深く見る、注視するということに重きが置かれていると感じました。

NF こういった小さな正方形の写真を経験することで、ものの見方自体が変わるんじゃないか、同時に展示した大きい方の写真を見るときの身体性みたいなものも変わってくるんじゃないかと。相互作用というか、そういうものを期待していました。

AR 観客に新しい見方を提供していくというか、提供するだけでなく、ある意味では強制的に、無意識のうちに観客はそういう見方をしてしまうのではないかと。

NF そうですね。それが視覚の怖い部分というか、だからこそ作品を作るにあたっては使える。そう言ってしまうと差しつかえあるかもしれませんが、利用できる部分ですね。日常の視覚経験というのはそういうふうにして、知らず知らずのうちにものの見方を刷り込んできているものでもあります。広告写真の場合も目的があって、そのゴールに到達させるために、どこを見せて、どのように感じさせて、どのように誘導していくかということが非常に高度に作られていますよね。




AR そうですね。そういったイメージが世の中に大量に流れている、また、そういったイメージの分布があった上で、作家としてどのようなイメージを作品として見せていくかが問われていると言えるでしょうね。トリミングして細部を見せる手法は翌年の『Invisible moments』(UP FIELD GALLEY, 2008)というグループ展の作品にも見られますよね。『Invisible moments』はどういった枠組みの展覧会だったのですか。

NF 4人の作家のグループ展でした。この展覧会ではデジタルフレーム、メーカー名などが表に出ていない、これまでに発表してきたアクリルマウントされた写真に近いプレーンなデザインのものを見つけてきて、それを4台を並べてスライドショーという形で展示しました。写真が一定の時間で切り替わっていくのですが、4台それぞれにセットしてある写真の数を微妙に変えてあるので、ずっと写真がループしていくなかで、電源を入れてからギャラリーが閉まるまでの間、同じ組み合わせになる瞬間が一度も訪れないようにしました。見ているうちにどんどん写真が切り替わっていくので、観客はどうしてもその写真が切り替わるまでの間になんとか写真を見よう、見終えようとします。動いていることによって、より人は見ようとする。このように移り変わっていく写真を経験することで、限られた時間の中でものを見る能力が増強されていくと言えばいいのでしょうか。人々のものを見る目を鍛えるための、ある種のデバイスのようなものになっていたと思います。このグループ展では出展していた作家全員が、展覧会のタイトル「Invisible moments」を作品タイトルにしていました。このタイトルと自分の作品の関連としては、文字通り「見られていない瞬間がある」ということです。


AR ひとつのモニタを見ているときは、1枚の写真が現れては消えるという部分を注視する。それが他にも3台あるということで、距離をとって見たときに1点の写真のみに注意することが難しくなり、1点に集中する行為とともに、複数の写真を一度にどう受け取れるかという状況が生まれてくると思いますね。



Installation view –『juxtaposition』at Tomio Koyama Gallery, 2008
「Multiplies」in『juxtaposition』at Tomio Koyama Gallery, 2008
AR 2007年の『東京画』や2008年の『Invisible moments』では、トリミングしたイメージを展示していましたが、2008年の小山登美夫ギャラリーでの個展『juxtaposition』ではどのような展示を行いましたか。

NF このときはギャラリーも広く、長方形の展示空間で、左側の壁はまっすぐに写真をくっつけて横に並べるという形にして、もう一方の右側の壁には、東京画で既に展示していたものですが「Multiplies」という作品を展示しました。展示風景の写真だと、作品の位置が高いように見えるのですが、実際は通常のアイレベルを基準に掛けられています。

アクリルマウントは2006年頃から使っています。意図としてはこの展覧会に関するインタビューでも答えていたと思いますが、写真それぞれの空間は繋がりようがないものですが、それらをくっつけて見せることで、逆にこれらがフレームで切り取られたものであることを意識させたいという意図がありました。それが本当の意味でどこまで上手くいっていたかどうかは今も考えているところです。
右側の作品の「Multiplies」というのは主に高い位置から撮影されていて、ビル群のような写真をこのように高低差をつけて展示しています。それは実際に撮影した場所での空間的な高さも関係しているのですが、このように上下にずらして展示したものと、あえてまっすぐ横に並べて何もしていないようなものという左右の壁の対比は意識してました。
「Multiplies」に関していえば、展望台へ上がってそこから街の光を楽しむ、見下ろすというようなものでもないし、かといって見上げるでもない。高くもなく低くもない場所からまっすぐ見てみると、どういうものの見え方が得られるのか?あえてそのように撮影して、このように展示をすると、写されている空間の上や下に何があるのか?といったフレームの外へも意識を誘導できるのではないかという意識があって、このような展示をしました。
そもそも写真というものが空間と時間のトリミングによって成り立っている。見えないことで部分を見せるというようなもの。フレームの外側が見えない、だからフレームの内側が見えるという構造になっていますよね。それをなんとか反転してフレームの中が見えていることによって、フレームの外を見たり、感じたり、考えたりと意識できるような状態が作れれば、よりリッチな作品になるのではないかと考えていたのです。

AR 同じく2008年にパリフォトへも参加していますね。話は逸れるのですが、その際にレム・コールハースの建築を見に行ったとお聞きしましたが。
 

NF そうですね。レム・コールハースの住宅建築の中でも重要だと言われているヴィラ・ダラヴァ(La villa Dall'ava)の中を偶然見せてもらえる機会がありました。実際の建築を見て、その建築の周囲を歩いてみて、建築内部の空間を体験するということを経験して、より建築というものに興味が向いてきました。もともと風景、都市の写真なので建築への関心がなかったわけではありませんでしたが、この建築を見たことで、レム・コールハースとはどういう建築家なのかといった部分から、今まで以上にいろいろと建築への興味が高まっていきました。もちろん著名な建築家なので名前は知っていましたが、これはけっこう大きな経験でした。建築家の人はどういう発想で建築を作っているのかということがものすごくおもしろいなと。


(Part 2はこちら


All images: (c) Nobuhiro Fukui, courtesy: Tomio Koyama Gallery

2011/07/23

Interview: 西澤諭志 – ドキュメンタリーのハードコア

「大井町 倉庫 窓A」(2011)

良知暁(以下、AR 今日は今年3月にサナギファインアーツで開催された個展『ドキュメンタリーのハードコア』のことを中心に伺いたいと思います。今回の展覧会では画面の中のずれを意図的に見せていますね。これまでは気づきにくい程度の操作をしていましたが、今回明確にずれを見せるに至った過程について聞かせてもらえますか。

西澤諭志(以下、SN) 見せるべきかどうかはかなり迷いました。昨年の秋にTOKYOPHOTO 2010に参加した際に出品した「ブラインド」(2010)という作品では、今回のようにずれを見せることで、画面が単なる間違い探しをする為のものになってしまうかもしれないと考えていて、ずれを出さない方向で制作していました。しかし、今回DMに使用した作品(「大井町 倉庫 窓A」)でいえば、分割された画面を結合する過程が、窓の手前にある格子の規則性を持ったずれによって、最終的な作品になる段階でそれがどのような見えをもたらすのか、プリントをする前に明確に感じることができました。これなら上手くいくのではないかと。もうひとつは去年ペドロ・コスタの『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)という映画の編集過程でのふたりの制作を巡るやりとりを撮影した作品を初めて見たことをきっかけに、映像を制作する過程をなんとかして一枚の画面で見せることは出来ないかと思いました。その過程を見せることで単なる一枚の写真というものの、これまでとは違う見え方を実感できたので、このような経験も含めて、なんとか入れ子構造のようなものを作ろうと考えたときに、敢えてずれを作るという方法を採りました。入れ子という言葉が適当なのかわかりませんが、例えば、窓を見るときに、それが単なる窓ではなくて写真としての窓を見ている。そして、最終的には額縁というフレームの中を見ているという形で複数のレイヤーを構成したいと考えていました。もともとの画像も手前のガラスや窓とそれらの奥の風景など何重かのレイヤーになっている。そうした構造を作品としてわかる状態にしたいと思いました。

AR そうした意識は2009年の個展のときに発表された新作では意識していましたか。これまでの作品、例えば「雪」(2009)ではフレームがないことでどこまでも拡大可能だという印象がありましたが、それに対して今回の展示では外側のフレームをはっきりと見せていますよね。

SN 以前は単純に手前と奥の空間の感じ方に興味を持っていました。確かに「網戸」(2009)は手前のガラス、網戸、水滴に映る空間と複数のレイヤーを意識させる画面になっていますが、写っているものの外側、額縁、といったより広い位相においてのレイヤーまで意識していたわけではありません。「ブラインド」も同じです。
今回の展示ではフレームというか窓の外側をちゃんと画面に収めようということで先程話したような意識が生まれてきたのかもしれません。現実においてもまず窓を介した向こうの眺めは、ひとつの映像であり、それを自分は見ている。その状態を撮影し、モニタという窓(あるいはフレーム)を介して、フォトショップを使い制作しながら写真にするという一連のプロセスからなにかを掴みとるわけです。そうしたことを作品で見せるにはどうしたらよいかと考えていました。

「ブラインド」(2010)
「巣鴨 自宅 窓B」(2011)
AR 窓だけではなく写真のフレームを意識させるために窓枠より外側にある黒い空間にある物がうっすらと見える状態で残されていて、その一方でスリッパの吊るしてある写真では僅かに黒い部分が残されていましたが、あれは意図的にフィルムの縁に見えるようにしたのでしょうか。

SN 窓の外側の陰影部に関しては自分の好みの問題かもしれませんが、構造だけが見えるものではなく、一見して魅力的なイメージでなければ意味がないと考えているので、一枚の写真としてちゃんと面白くなるようにしました。そして、よく見るとそれだけじゃなく広がりがあるというものを作りたいですね。フィルムの縁のように見えるのは意図的です。実際に撮影したものにはもっと部屋の様子がわかる位の範囲まで写っています。最初はこの窓の黒い縁の部分はすべて取り除いて、純粋にガラスの表面だけを写していたのですが、その状態ではどうもしっくり来ない。今回の作品では窓というひとつの枠を考えながら制作していたので、試しに黒い部分を残したときにフィルムのように見えました。しかも、それがすごくわざとらしい画面として出来上がりました。フィルムを擬態することで、もう一つの窓を可視化できたのです。やり過ぎだと言われるかもしれないとは思ったけれど、すべての作品を統一するわけでもないので大丈夫だろうと。実際はこのフィルムの枠に関しては指摘する人は少なかったのですが。

AR ギャラリーでお会いしたときにある意味ではどこを撮ってもよかったとおっしゃっていましたが、最終的に部屋の窓と倉庫の窓を選んだのはそこが最適な場所だったからなのか、それとも、新しい手法を試すために無作為に選ばれたのでしょうか。

SN 自分の中ではこのふたつの場所をきちんとドキュメント出来れば、他の場所でも躊躇なく撮れるような気がしていました。このふたつに絞っていくことは自分でも勇気のいることで、展覧会として成立するのだろうかと。ただこの一年、私が東京に出てきて生活が変わっていく中で、ちゃんと思い出せる光景、眺めを基準に限定していったときに自宅とバイト先の倉庫、このふたつの場所くらいしか思い当たりませんでした。それでもふたつあれば良しとしようと思いましたし、それらを写真にしておかないと気持ちが悪いと。部屋の写真はそれまでも撮っていたのですが、どう使っていいのかまだわかりませんでした。昨年、この部屋に引っ越してきて、なんとなく悪くない眺めだと思い、撮りたいと考えていましたが、どう見せていいのかというところまではいまいちよくわからない中で、最初に出来たのはDMに使用した倉庫の写真でした。あの写真が出来たことで今回の展覧会の方向性がわかり、その過程で部屋の窓の写真も撮り足して出来上がっていきました。展覧会の空間でいえば、倉庫の写真の方から部屋の写真へという流れで出来上がっていきました。

AR 今回は展覧会全体に窓というモチーフがあり、その上で画面を丁寧に作っているのですが、窓という要素が必要以上にフォーカスされて、あるひとつの方向から語りやすい作品になってしまうのではないか。それによってそこからこぼれるものになかなか注意が向かなくなってしまう危険性があるのではないかと感じたのですが。

SN どうでしょうか。自分の部屋だけを撮ることは私写真と言ってしまえなくもない。それを今の時代にどう新鮮に見せることが出来るのかと考えたとき、たとえこの1枚がいい写真だとしても、あまりに取りつく島がないのではないかと正直思います。ある意味では自分の小賢しいところかもしれませんが、語りやすさがなにかの呼び水になればいいかとも考えました。自分の撮影範囲が完全にドメスティックと言ってしまえるものなので、外側に連結させるなにかがないと本当に閉じたもので終わってしまう場合があり、それが自分でも難しいところだと思っています。鑑賞者と制作者の関係を考えたときに、どのようなものが理想的な関係なのかわかりませんが、ある程度は両者の対立を前提としてみてもいいのではないかと考えています。僕がやりたいことを示す一方で相手がリアクションを返せるところ、両者の相容れない部分を明確にする。だからこそ僕にしかわからないなにかは当然あって、例えば今回の画面上のずれの感覚がそれですね。自分はこのように見たと主張するのに対して、それでも実際の見え方とは違うじゃないか、と相手が言えるような余地を与えたい。そこに対立が生まれるようにしたい。

「巣鴨 自宅 窓A」(2011)
AR  以前から西澤さんは写真をじっと見ることを作品制作上のひとつの要素にしていましたが、今回ずれを使うことでそのずれた部分が観者が写真をじっと見るよ うに誘導する機能を果たしていましたね。フォトショップなどの機能を使うとき、その機能を上手く使うという考え方だけだと数年後にはソフトウェアの性能という側面から簡単に乗り越えられてしまうことがありますが、今回のような"誤使用"の状態でこそ見えてくる質を示す方法には可能性を感じますね。

SN それは今回、思っていた以上に効果的だと感じました。実際に狙い通りの反応を示す人もいましたし、必要以上にテクニックの話になることもありませんでした。そういう意味では最初は躊躇していたけれど、大丈夫だという実感が得られました。

AR 服やスリッパ、ハンガーなどの画面を構成している要素は撮影用に調整したものでしょうか。また、作品のサイズはどのように決まりましたか。

SN 撮影の際に、あまりにも服がたくさんかかっていたり、逆に何もなかったりしたときには調整していました。日常的に見ていたものを再構成するというのでしょうか。この結露も自分で作っています。カセットコンロを使って結露を発生させて適当な状態になるまで待ちました。結局、画面全体の仕上がりというのは分割して撮影しているのでわからないのですが、考えていますよね。このベッドのシーツの具合なども。根本的にドキュメンタリー=ノンフィクションではないという考えを持っています。作品のサイズに関しては、自分の癖なのかもわかりませんが、撮影した範囲を繋げるとほとんどのものが同じようなサイズに仕上がります。ラムダプリント、最大出力で出来るサイズがだいたいこれくらい。サイズということで言えば、気にしていたのは画像よりも余白でしょうか。余白や画像の陰影部分。先程も言ったように一見して、写真が面白いと思えるかどうかに関して、黒の分量や余白の分量はけっこう重要だと思いました。どうにかしてここを成立させなければ面白い写真にならないと気を使った部分です。複数の画像を繋げていくと全体の形が四角に収まらず、余白の部分にはみ出してくることもあるのではないかと質問されたのですが、それをやってしまうと、今の僕の実力では最終的な画面がまだ構築できないのではないかという気がしています。事実、やってみようかと思ったのですが、やっぱりまだ難しいと。

 
「星座や地図」(2008)
AR そういう意味では山形県での個展『I’m here』で発表した作品とアプローチに似ているものがありますが、今回の作品には違う意図も入っているので仕上がりも異なるのでしょうか。ずれを使うという点では共通していますが、額を使わず、最終的な形も四角ではなかったですね。一方で今回は額ありきの作品でしたね。

SN まず、前回の個展ではアクリルマウントを使用しました。それ以前の写真新世紀での展示でも使用していますが、アクリルが自分に合っているのかどうかはずっと考えています。学生時代の卒展では上から吊るした状態での展示です。直張りという状態が一番好きなのかもしれません。余白ありの直張り。ただ、保存するときにひとりでやろうとすると絶対にプリントを傷めてしまいます。そんなことも有り、今回は額の方が相応しいのかなと考えていた上に、入れ子構造にしたいという狙いも出て来たので額に決めました。アクリルマウントの場合、基本的にはその外側の空間がきれいであること、又はちゃんとコントロールされていること、ギャラリーや美術館で見ることが前提にある気がします。その展示一回限りのものという気がしないこともない。それと比べたときに額はそれ自体がいったんそこで閉じているので意外と場所に対してフレキシブルかと。ホワイトキューブではない個人の部屋で見ていると額の方がいいという気がしますけどね。もちろん展示をきちんと見せたいという意識はありますが、どちらかと言えば一枚の写真としての強度を重視しているので、額の方が合っているのではないかと思いますね。ただ正直に言ってしまえば、写真それ自体がフレキシブルなものだから、そのときに応じたものでいいと思うし、フォーマットやサイズも統一する必要はない。実際にはまた別のシステムのことも考えなければいけないのですが。一枚の作品を見た後で外に出たときに、それまでとは見方が変わるきっかけになればいいと思います。人はそれまでの経験から、ものを見る/見ない、という判断を行っていると思うので、そのときに実際にものの見方が変わるような、ひとつの別の見方を導入できるような作品を作りたいのです。

AR 今回の展示では画面内にずれが残り、操作されていると理解できる。それでもなお、これが記録として機能する可能性について考えさせられました。意図するところと違うかもしれませんが、対象となったのが自宅と倉庫のふたつの場所ということで、これを2000年代もしくはそれ以前から10年代にかけての東京で暮らしている20代のひとつの生活のモデルケースの記録として考えることができるのではないかと。20,30年後にこの作品を見たとき、この時代のある種の記録として見える可能性が潜んでいる、それがタイトルに使われていたドキュメンタリーという言葉とどこかで呼応しているような気がしました。画面の中のずれを見て、パソコンで操作していることがわかってもなお、写真がなにかの記録であるという部分が機能するのではないかと。展覧会のタイトルは以前、写真新世紀に出した作品に付けたものと同じ『ドキュメンタリーのハードコア』になりましたね。

SN このタイトルは自分の中のマニフェストみたいなものです。自分が作るスタンスとして"ドキュメンタリーのハードコア"というものがあるとやりやすい。今回は自分の部屋とバイト先のふたつの場所、その限定された空間の往復から作品を作っていました。こうした状況でもドキュメンタリーが可能であれば、そこにもう一度"ハードコア"という言葉を使ってもいいのではないかと思いました。もう一度使うことで自分の中で変わってくるものもあると思いましたし、今回の方が前のときよりもしっくり来ますね。一般的にドキュメンタリーという態度が社会的事象、報道的な側面と結ばれやすいのは相性がいいからなのだと思います。ただし、それは逆であるべきで、本当はもっといろいろな方法があるはずだけれども、単純に相性がいいからという理由で特定の手法が一般的に用いられているだけで、何をどこまでドキュメントするのかは考え方次第でさまざまな方法がある。例えば、小説を読んだ体験をドキュメントするときに、その小説をすべてスキャンしてもその体験ができるわけではない。なんらかの方法でドキュメントできるはずだけれども、その方法が一般的ななにかとして認識されていないから小説をドキュメントするというイメージがわかない。写真を例に考えれば、なんとなく面白いと感じた場所を撮影した結果、あまり面白くなかったときに、それはそもそも場所自体が面白くなかったと考えるのではなく、単純に撮り方が悪かったと考える。制作方法とその対象との相性が悪かっただけで、別の方法でやれば、いつかはそれがちゃんと形になる。いつかちゃんと写真にしたいのであれば、それは必ず写真になる。自分が方法を変えるだけなんです。ドキュメンタリーというのはそういう姿勢のことだと考えています。ロバート・J・フラハティというドキュメンタリー映画の監督の『アラン』(1934)という30年代の映画がありますが、これなんかは完全に劇映画の方法なんですよね。演出されていなければ撮れるわけがないんです。離れ小島の漁師の生活を撮った映画なのですが、それを見ていると、これくらい昔からも、このような映画に演出があるに決まっていると。昔の鑑賞者は今より与えられた映像が真実なんだという認識が共有されていたからできたことなのかもしれませんが、それでも演出していくことで監督か誰かが感じたものをひとつの作品にしていくというのがドキュメンタリーなんだろうなと。確かサイレントだったと思います。別の例を挙げれば集合写真も演出されていますよね。それでも写された頃のことはわかるし、資料価値もある。それは顔が写っているからとかではなくて、なにかそのときのことが思い出される仕組みになっている。演出されたから嘘かと言われればまったくそういうことではないのです。ある程度自分の意志で作っていったものが必要なのかと。そうであれば、写真を嘘か本当かという次元で見ることはない。

展示風景 – 『ドキュメンタリーのハードコア』at Sanagi Fine Arts, 2011
展示風景 – 『ドキュメンタリーのハードコア』at Sanagi Fine Arts, 2011
AR 今回の展示が始まる前に考えていたことに対して、実際にギャラリー空間に設置したときの最初の感触はいかがでしたか。

SN 展覧会初日は自分でもどう展示を見ていいのかわからない状態でしたね。最初はまだ不安が残っていました。地味な展示だなと。ただ窓が写っている写真という、ここまで切り詰めた展示をしたことはこれまでなかったかもしれません。会期中にいろんな人と話していく中で自分のやろうとしていたことを確信していきました。不思議なことですが、人の言葉によって自分の考えが整理されたり、逆に自分が本当は何を考えていたのかわからなくなったりと、対話を通して自分のやっていたことを確認していくという。今回の個展が僕自身4回目だったのですが、展覧会をやることで次の手が見えてくるということは本当に馬鹿になりませんね。これをやったから次ができるという感覚。いきなり飛躍するのではなくて一歩一歩進んで行くということを今回強く実感しましたね。これをやったことで今までの事が割とスムーズに繋がっていく。

AR ハードコアな部分から始めると考えていた展覧会が終わって、今後、自分の部屋と倉庫以外で撮影したい場所は出てきましたか。

SN いま考えているのは自分のテリトリーのことです。これまではずっとドメスティックな場所を撮影してきたと考えていますし、この部屋に関してはある程度撮り尽くしたという感覚はあります。そこで、自分のテリトリーというのはどのくらいなのかを見てみたいです。自分のテリトリーなのかどうなのかわからない微妙な場所を撮影できないかと考えていますね。例えば自分がよく知っている美術館の窓。もう10年近く通っている美術館の窓の眺めを撮影してみる。本当に撮るかどうかわかりませんが、自分がいる美術や写真という制度の内側からその外側を見る。自分のテリトリーを拡大したいのかもしれませんね。これはきちんと考えなければいけないことですが、実際には自分の部屋もテリトリーなのかどうかわかりませんね。偶然ここに住んでいるだけで、与えられた状況を受け入れているに過ぎない。そうして与えられたところを無理矢理写真にしてきたのかもしれない。好みの写真の光景に出会うまで移動するのではなく、与えられた状況をなんとか自分のものにする、それこそ写真に撮ることもひとつの手段です。そういう意味では無理矢理海外に連れ出されてなにかをすることも実は有効なのかもしれません。写真になるまでその場所に付き合う。結果として出来なかったら出来なかったで、何が違ったのかを考えることができます。

「情報棟 貯水槽蓋」(2007)
AR 以前のINAXでの個展のときも、この床の写真を見せながら、写真になるまでその場所に付き合うことの重要性を話していました。それは今でも変わらない考えとしてあるんですね。

SN この床の写真を撮ったとき、こんなところでも写真になるんだということが実感できて、もっと続けてみようというきっかけになりました。一番思い入れのある写真かもしれませんね。やっぱりいつかは写真になるんですよ。それを待てずに動き続けて、その結果としてある光景に出会うということも当たり前のようにあるけれども、自分にとって関係のある場所、関係を持たざるを得なかった場所が映像史の中に組み込まれて、ひとつの視覚体験のあり方、つまりひとつの写真になるまで自分が付き合う方にやりがいを感じるし、それが大事なことだと考えています。
 (2011/05/04, 西澤諭志自宅にて)


西澤諭志『ドキュメンタリーのハードコア』
2011年3月15日−4月16日
サナギファインアーツ
http://sanagijima.com/


西澤諭志(b.1983)
2008年東北芸術工科大学卒業。主な個展に『ドキュメンタリーのハードコア』(2011, サナギファインアーツ)、『可視は不可視か』(2009, サナギファインアーツ)、『西澤諭志 展 – 写真/絶景 そこにあるもの –』(2009, INAXギャラリー)、主なグループ展に『Exchange Tokyo→Osaka』(2011, The Third Gallery Aya)など。2007年、2008年にはキヤノン写真新世紀にて佳作を受賞している。
ブログ:http://d.hatena.ne.jp/areti/